« 巨星逝く「山田耕嗣先生」 | トップページ | 関西のBCLが集まりました »

2008/08/21

山田 耕嗣先生をおもう

訃報から、一夜明けました。
未だに信じられない思いです。
私がBCLを知ったのは1973年発行のラジオの製作に掲載されていた山田先生がお書きの記事でした。
海外からの日本語による短波放送の受信、たぶん北京放送、モスクワ放送が最初だったと思います。
短波放送の受信という趣味を通じて世界に目を向け始めたのも思えばこの頃でした。
それから、アマチュア無線をはじめ、電気通信を専門に教える大学で通信の勉強をし、また短波放送受信趣味の世界へ。
エレクトロニクス系の仕事についたのももとはと言えば、中学生時代にBCLとの出会いがあったかたらです。
少年のころ本当にBCLの神様のような方と尊敬していた山田先生に初めてお会いしたのはおととしのハムフェアでした。
日本短波クラブのパーティでは真向かいの席で杯を交わらせていただきました。
ラジオの製作に登場された山田先生は黒い長髪でしたが、お会いした山田先生は長白髪+顎髭でした。
「BCL仙人だ!」とその時は思いました。
初めてお目にかかったその時からまるで友人のように接していただき「わーっはっはっは」という大きな笑い声を交えながら色々なお話しをうかがいました。
「BCLは聞きたい時に聞いてナンボだよ。」
「ラジオなんて何でもいいさ。大事なのは、受信地の環境!。ボクなんてこれだよ。これで十分さ!。沢山あった受信機はみんなかたづいてしまったよ。」
と言いながら鞄からだされたのは、黒いSONYのICF-SW7600Gでした。
そうとう使いこまれている様子で、スピーカのあたりはへっ込み、塗装がはがれていました。
外房はいいよ、コンビニもないけどノイズもない。一度いらっしゃいとお話しいただきました。
受信趣味の世界で沢山の先輩に教えを受け、また仕事や社会的な立場をこえた親しい友人が出来ました。
45をこえて、これほど親しくなれる友人が増えるとは思いませんでした。
これなどもBCLのおかげかもしれません。
山田先生は、中学生の頃から現在まで、私の人生に最も大きな影響を与えていただいた方といっても過言ではありません。
今年のハムフェアでまたお目にかかり、あの「わっはっは」と楽しいお話しを楽しみにしておりましたのに、本当に残念です。
私ですらこんなことですから、50年以上お付き合いのあった諸先輩のお気持ちは幾ばかりなりやとお察しいたします。
多くのBCLがはやく逝きすぎた先生を偲び悲しんでいます。

BBSに、
「遠く、時の輪の接するところでまたお会いましょう。ありがとうございました。」
と書き込みがあるのを見つけました。
泣きそうになります。
人のえにしとはまさしくそういうものなのかもしれません。
本当にいつかどこかでお逢いできればと思います。

山田 耕嗣先生、ありがとうございました。
どうぞ安らかにおねむりください。
私は、山田先生のことを決して忘れません。

|

« 巨星逝く「山田耕嗣先生」 | トップページ | 関西のBCLが集まりました »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/2974/42230365

この記事へのトラックバック一覧です: 山田 耕嗣先生をおもう:

« 巨星逝く「山田耕嗣先生」 | トップページ | 関西のBCLが集まりました »