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2012/01/23

効率化の果てに「待つ」ことを忘れた私たち

というタイトルで、BusinesMedia誠が以下の記事をwebに掲載していました。
さもありなん。

会社でも、どこでも効率を求められています。
何のための効率アップでしょう?
収益性の上昇?
->その結果、従業員の給料があがり豊かになる?
->その結果、家庭生活も豊かになり税収が増えて国が潤い国力が上昇し再び世界第2位の経済大国になる?
(まぁ、これはない。。。な。)

それとも、見掛け上のジョブあたり賃金の低廉化?(ふふっ)

はてさて、、、

記事は、ここから↓↓

「効率化の果てに「待つ」ことを忘れた私たち

悪神のささやき───

「人間というのは実に勤勉な動物であることよ。太陽の巡りで1年に1回しか収穫できない作物をハウスをこしらえて2回の収穫にしてみたり、工場の中に水を流し、電灯を点けて10回にしてみたり。

24時間365日は動かないけれども、回転数を上げることでそれを何倍にも使う。人間たちはそうして現在を圧縮することに成功したわけだな。

いや、それにしても、PCの処理速度をどんどん上げていった先には、自分たちが“ラクでヒマができる”生活があるはずじゃなかったのかい? これまで1日かけてやっていた作業が半日になり、2時間になり、1時間になった。そりゃめでたいことだが、はて、そこで浮いた時間はどこへ行った……?

さ、そこに置いてあるワインとチーズを食わせてもらうことにしようか。ほほぉ、『10倍効率もの』か。10年熟成のワインを1年でこしらえ、10カ月熟成のチーズを1カ月でこしらえたものなんだな。いや人間の知恵は素晴らしい。さぞ、うまいに違いない……」


●時間に人間が使われていないか

私たちはスピードを上げること、回転数を上げることで、有限の時間に対し、生産性向上・効率というものを手に入れた。だからこそ、戦後の日本は人口増加にも対応できる消費財の量を供給することができ、また、低価格を実現させて、国内外に売り、国富を獲得してきた。

時間を効率化して使うこと自体は問題ではない。むしろ奨励されるべきことだろう。しかし、そこには常に「即席文化」を助長する力が働く。そして最も恐るべきは、人間が時間を使うのではなく、時間に人間が使われるようになることだ。
高速回転しながら量をこなす生活は、果たして濃密に豊かなものなのか。それとは真逆で、スカスカになっていやしないか。

高校生の時、初めてラブレターを書いた。何度も何度も推敲して書いた手紙を投函したその刹那から、「明日届くのかな、あさって届くのかな」、1日経てば「今日見てるかな、まだ未配達かな」、2日経てば、「今日見てるかな、彼女のお母さんが怪しんでいないかな」などと、ヤキモキ思いを巡らせたものだ。

1990年代初め、私はアップルのMacintosh Quadraを買って使っていた。当時の写真画像処理ソフトPhotoshopは、今からするととても非力で、ちょっとしたレタッチ処理でも、5分や10分、30分、時には数時間を要した。画面には、例の腕時計のアイコンが針を回しているのが映るだけで、処理がいつ終わるのかは、まさにPCのみぞ知る、だった。うまく処理してくれればいいが、辛抱強く待ったあげくに、マシンがフリーズすることもざらだった。

けれど、その待っている時間は、過熱した頭をしずめるのにちょうどいい小休止で、熱いコーヒーをすすりながら過ごしたものだ。すると、別のデザインアイデアや思考がふぅーっと湧いてきて、結果的にそれがとても創造的な時間になるのだった。

私の実家は三重県の片田舎にある。地域の足として近鉄電車の支線が走っている。運行本数は1時間に3本程度だ。だから1本を逃すと待ち時間が長い。だが、子どものころを振り返るに、電車の待ち時間が長いと感じたことは少ない。私は、いつも駅のホームから西に連なる鈴鹿山脈の稜線を飽きずに眺めていた。山脈の稜線はギザギザに富んでいて形状が面白い。日の入り時刻ともなればとても美しいシルエットを見せてくれた。

●「待つ」ことを我慢しなくなった私たち

「待つ」

 その時間が実は豊かな何かを育んでいたと感じるのは、私だけだろうか。私たちは「待つ」ことを我慢しなくなった。

忙しいとは、心を亡くすと書く。試しに、過去1年、3年、5年を振り返ってみてほしい。高速回転で動き、量をこなしてきたけれど、そこに心はなかった……(愕然)なんてことになりはしないだろうか。

●私の人生時間の主人は、私である。

2012年も明けてすでに2週間が過ぎた。この分でいくと、間もなく進入学の春が来て、夏が始まり、気がつけば秋になっているだろう。時間に使われないためには、1日、1日、心をしっかり置き留めて進んでいくことである。

心を置き留めるとは、スピードや効率化の流れに受動的に巻き込まれるのではなく、立ち止まるべき時は焦らずに立ち止まり、待つべき時は辛抱強く待ち、1つ1つのやるべきことを「これでいいのだ」という自信のもとに、自分の心のペースで動かしていくことだ。そして5年、10年の時間レンジでどっしりと構えられる肚を持つことだ。1日1日の中身をきちんと詰めていけば、未来には相応のきちんとした果実が成るように人生はできている。

私は、効率的に作られたワインやチーズを食したいとは思わない。良いものを食べたければ、1年待つことをするし、10年かかるのであれば、それを楽しみに10年待つ。そして何より大事なことは、自分も1つの生産物だとすれば、自分自身が即席ものにならないことだ。

「未来について一番良いことは、それが1日1日とやってくること
(The best thing about the future is that it only comes one day at a time)」
──第16代米国大統領エイブラハム・リンカーン  (村山昇)

記事は、ここまで↑↑

うーん、そうだよなぁ。
でも、人生50年なんて言いながら舞をしたちょびヒゲのおっさんの歳を越えて、身体的に弱くなった部分もそこらじゅう。
首もおかしいし、肩やひざ関節もヘンだ。おまけに視力も衰え、根気も落ちた。

もう人生の時間は豊かと言えるほど残ってないと実感しています。
以前にも書きましたが、自分の年齢を3で割ると人生時間になるそうです。
私の場合、だいぶ夕方で、今の季節なら暗くなり始める時刻です。
身体の自由が利くのはあとどれくらいかと思うとぞわっとします。
んなことでぞわっとしても仕方ないんですけどね。(笑)

ちなみに今日は風邪をこじらせて寝込んでいます。
やれやれ。

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